2004年1月〜
掲示板の過去ログをここに示す。
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| 愛車が雪の中 | ||
| ごん狐 | 2004/01/31 01:57 | |
今年の冬、もう雪は見れないかも。
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| 今晩は | ||
| lithium | 2004/02/01 23:36 | |
関西では1/17に雪が降りました。さて、今日は御田祭り(奈良県明日香村)でした。
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| lithiumuさんの写真、おもしろいですね | ||
| ごん狐 | 2004/02/05 01:32 | |
半田の山車が燃えてしまって唖然としてる人。これは冗談。半田市成岩神社のお正月のかがり火の後始末をしてる、成車のはっぴを着た人です。僕の写真はこんなのしかなくてすみません。
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| Re:lithiumuさんの写真、おもしろいですね | ||
| lithium | 2004/02/09 00:43:50 | |
そちらの方面にも、陰・陽をかたどった祭りが2〜3月にあったと思いますが、いかがでしょうか。そこで今度は面白くない写真ですが、デジカメ用のメモリーカードの一種であるマイクロドライブを、パソコン関連機器(NOMAD MuVo2 4GBタイプ)から摘出した所。売値が約4割の為、デジカメユーザーの間では流行しています。
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| 詳しくなくてすみません | ||
| ごん狐 | 2004/02/28 02:12 | |
>そちらの方面にも、陰・陽をかたどった祭りが2〜3月にあったと思いますが、よく知らなくてすみません。lithiumさんの方が詳しそう。デジカメの中身興味深く拝見しました。この掲示板、画像を入れるのに苦労します。半田の山車のはっぴです。これもlithiumさんの方が詳しそう。 | ||
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| タイプ論、合理機能と非合理機能 | ||
| 蜃気楼 | 2004/01/02 00:40 | |
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おめでとうございます。 とりあえずタイプ論読みましたが(と言っても半分しか読んでない)、やっぱり難しいですね。特に内向と外向が…。 意識が、客体に規定されるか、主体に規定されるか…、どっちもあるだろうとも思ったりします。 ただ、やはり日常語的な解釈(社交的か内気か)は当たらずと言えども遠からず程度のもののように思われますね。 と言うか、性格タイプを一般的な性格の特徴(優しいとか冷たいとか)に言い換えること自体がすでに上述の類というようにも感じます。そのようなものはある種の「結果」で、性格タイプというのはなんらかの「結果」を生み出す「過程」と言うところでしょうか。 だから同じ過程を用いていても、その他の要因が変わることで違う結果を出したり、逆に違う過程を用いていても、場合によっては同じ結果を出したりと言うことですね。 ところで、個人的にあらゆる対立の中でも合理タイプと非合理タイプの対立(つまり判断機能と知覚機能ですね)が最も強いような印象を受けたんですが、これに関してはどうですか? まあ、合理と非合理がそもそも対立的なものか、という疑問もありますが。 | ||
| lithium | 2004/01/03 15:10 | |
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あけましておめでとうございます。 >やっぱり難しいですね。特に内向と外向が その通りです。 >意識が、客体に規定されるか、主体に規定されるか…、どっちもあるだろうとも思 >ったりします。ただ、やはり日常語的な解釈(社交的か内気か)は当たらずと言え >ども遠からず程度のもののように思われますね。 " タイプ論"では、第1・2・3・5・7・8章に前者の視点、第4・6・9章に後者の視点が現れていますが、そうすると何故、両者の視点に相関があるのか、は明らかにされていません。ここが"タイプ論"の難解な所です。而るにMBTI等心理テストの開発者は専ら、第4・6・9章的な視点だけを採用しています。もし第1・2・3・5・7・8章的な視点を心理テストに盛り込むならば、 (a)硬い心の哲学に惹かれる (b)柔らかい心の哲学に惹かれる (a)唯名論に惹かれる (b)実念論に惹かれる (a)感情移入型の美に惹かれる (b)抽象型の美に惹かれる と言う質問が出るでしょうが、勿論、筆者は見た事はありません。 >合理タイプと非合理タイプの対立(つまり判断機能と知覚機能ですね)が最も強い どうでしょう。Jungは外向と内向の対立を重視し、機能(思考・感情等)の差は余り目立たないと言っています。MBTIでは、感覚と直観の対立が重視されています。そして合理と非合理の差ですがJungに従う限り、これがご指摘の様に大きいかどうかは別として、筆者は(日常語的な意味での)内向と外向に多少、近いのではないかとも思っています。つまり、 ◆外向思考型+全ての内向型==>日常語での内向型 ◆外向感情型==>"古い"人柄 ◆外向感覚・直観型==>日常語での外向型 お答えにはなっていませんけどね。 >そのようなものはある種の「結果」で、性格タイプというのはなんらかの「結果」 >を生み出す「過程」と言うところでしょうか。 どうでしょう。これはどうとでも解釈出来る事、と思います。 | ||
| 蜃気楼 | 2004/01/04 04:03 | |
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>そうすると何故、両者の視点に相関があるのか、は明らかにされていません 「客体に積極的か消極的か」と言う定義を、思想哲学に当てはめたか、日常生活に当てはめたか、というところではないか、というのはどうでしょう? 内向外向の定義が「客体に対する態度」である以上、どちらの視点もそれに還元するのが自然と思います。 実際の所、タイプ論に 「プラトンの思想は内向的だが、プラトン自身が内向型かどうかは微妙」 みたいなことが書いてある以上 >(a)唯名論に惹かれる >(b)実念論に惹かれる で、(a)なら外向型、(b)なら内向型とは言い切れない気がします。それに「惹かれる」となると、外向型ならとりあえずどちらも学ぼうとしそうですし、内向型はどちらにも満足しなさそうです。どちらも「既成の概念」と言う意味合いで「客体」ですから。 やるなら、例えば「神」について何か適当に考えて、それを後から検証した方が何か出そうな感じがします。少なくとも神についての理解が深まる… >Jungは外向と内向の対立を重視し、機能(思考・感情等)の差は余り目立たないと言っています まぁ、僕個人が感じたことに過ぎませんから。合理タイプにとって非合理タイプは「倫理観、道徳心の欠如した人間」 非合理タイプにとって合理タイプは「自縄自縛してる変な人間」って感じでしょうか。差が大きいと言うよりは単に僕が着目した、と言うだけな気がしますね。 >外向思考型+全ての内向型==>日常語での内向型 どうして外向思考型が非社交的なのか、ってとこですね。 >外向感情型==>"古い"人柄 年寄り連中とずっと一緒に居ればそうなりそうな気もしますが、外向感情型を特徴付けるのは「考え方が古い」とかそういうことではなさそうな。 >これはどうとでも解釈出来る事 それはそうですが、だからといってタイプを社交性だとかそういうものに還元しきるのはやはり無理な気がします。そういうものは変わりやすい、と言うことと、何よりも曖昧な感じがしますね。あまりなにかの理由にはなってないですが | ||
| lithium | 2004/01/07 00:48 | |
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>内向外向の定義が「客体に対する態度」である以上、どちらの視点もそれに還元するのが自然と思います。 そうでしょうか。思想哲学と日常生活、筆者のホームページでは"認識論的"・"日常語的"と言っていますが、両方の視点で一貫して外向(内向)的となる人もいれば、そうでない人もいます。例えばJungは科学者や技術者を外向型と思っているように受け取れますが、日常語的視点では科学者や技術者は平均して内向型、つまり第9章で言えばガウスやヘルムホルツがより科学者の典型に近いと思って間違いないと思います。 これとは逆にいわゆる知識人・文化人はどうでしょうか。知識人・文化人の辞書的な定義がどうかは知りませんが、学者・専門家・識者・達人・名人・哲人・文人・巨匠等の呼称を斥け敢て"知識人・文化人"と言う場合の語感、この語感こそ、ここでの知識人・文化人の定義と考えてください。そうするとJungのタイプ論を翻訳した林道義は、ホームページ (http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/)を見る限りでは、知識人・文化人にぴったり当て嵌まると思いますし、週刊誌では週刊新潮が知識人・文化人肌のライターによって、そうでなくとも知識人・文化人を求める読者を想定して書かれていると思います。そして知識人・文化人、Jungのこんな記述に当て嵌まります。 ◆ある人は外が寒いという事実があるとすぐオーバーを着ようとするが、しかし他の人は身体を鍛えたいと言う理由からオーバー等余計だと思う。ある人は世間の人が皆賞賛しているという理由で新進のテノール歌手を賞賛するが、他の人はかれが気に入らないと言うよりは、寧ろ皆が賞賛している者が必ずしもそれに値するとは限らないと言う考えから、彼を賞賛しない。ある人は経験に照らしてこれ以上は有り得ないと言う理由から既成事実に従うが、しかし他の人はもう 1000回も同じ事が続いたのだから1001回目には新しい事態が生じるはずだと固く信じている。 ◆彼の話す事は世間の人々の話す事とは違っており、余りに主観的過ぎる。彼の論証には他人を納得させる道理が欠けている。彼に出来るのは只告白し述べ伝える事だけである。彼は荒野に叫ぶ説教者である。 前者は内向型、後者は内向直観型の記述の一部ですが、その主張性は寧ろ日常語的視点での外向性を連想させます。 ここでもし、思想哲学と日常生活の視点の背後に共通の外向・内向のメカニズムがあれば、科学者・技術者も知識人・文化人も、どこか混じった印象のある人物像になるべきですが、そうとも思えません。主張性を内向型の特徴、と思ってしまうのも一案ですが、そうすると日常生活の視点に近い第4・6・9章と矛盾します。よって認識論的・日常語的、異なると見做すのが自然です。 >「プラトンの思想は内向的だが、プラトン自身が内向型かどうかは微妙」 はい、他の箇所でも似たような記述は一杯あります。ただそれでもlithiumには、認識論的・日常語的視点のずれの問題に対するこれが答えとは思えません。残りの部分に関する返事はまた後で打ちます。 | ||
| 蜃気楼 | 2004/01/17 01:29 | |
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思想哲学における外向・内向は、その理論の中で現実的な客体をどのように扱うか、であると思われます。しかし、これはあくまで「理論」がどちらであるか、の問題であり、その理論を提唱する人の性格がどちらであるか、という問題とはそこまで直接的には関連していないようにも思われます。 そして 「プラトンの思想は内向的だが、プラトン自身が内向型かどうかは微妙」 という記述はこのことを指しているように思われます。 実際、全ての実念論者が内向型であるとか、全ての唯名論者が外向型である、などということはないでしょう。 日常語における外向・内向は対人関係において「社交的か非社交的か」程度の意味と思われます。外向型は客体(他人)との関係において自分自身を見出すため、内向型にとっては客体(他人)からの影響は避けるべきものであるためそれぞれ社交的、非社交的になるものと思われます。 しかしこの場合重要なのは、「社交的かどうか」という問題ではなくその前段階の「他者からの影響を必要とするか否か」のはずです。社交性にこだわるのはあまりよいこととは思えません。なぜなら、「社交性」も含め、日常的に人が他人を特徴付ける言葉はその意味があまりに曖昧で、その判断があまりに一面的だからです。 まず日常語で言う「社交性」を厳密に定義しようとすればするほど例外やなんやらが出てきて不可能と思います。あるいはその定義が日常語から次第に離れていくことになると思われます。それはそれらの判断が所詮、個人の主観的な印象でしかないためです。例えば人によっては「眼鏡をかけていて、物静かだから」程度のことで、その人物を「知的な人」と判断します。しかし、定義するとき「近眼である」などという言葉を入れるわけにはいかないでしょう。 また、これは何事においてもそうだと思いますが、ある単語を別の単語で置き換えるのは危険でしょう。数学的でない日常語の中で「A=B」とするとき、それは「AとBの間にいくつか共通点が存在していて、それに着目している」 という事実に過ぎないと思われます。観察者が変わればむしろAとBが相反するものになることもしばしばあるでしょう。 従って向性を別の言葉、例えば社交性や思想形態とすることはできないと思います。向性の定義はあくまで「客体と主体、どちらを重視するか」であり、それを社交性や特定の思想、その他の特徴などで説明するのはいずれも不完全なものになるでしょう。 結局、視点が二つあるのではなく、「外向・内向の視点」から二つのものを見た、とする方が妥当に思われます。最も重要なのは外向と内向のそれぞれの定義であり、日常生活や思想哲学はあくまでそれらが見出された場所に過ぎず、「内向的とはどういうことか」「客体で方向付けをするとはどういうことか」を例示によって説明したという感じですね。 | ||
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