綾紫の日記
2008年12月21日〜30日

 
裁判員制度に反対(続き)
2008年12月30日(火)
Infoseek
今日は晴。
 
 

先ず朝日新聞(mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000000812300001)は、大阪地裁堺支部が行った裁判員に選ばれては困る時期等に関するアンケート結果を報じている。
  • 調査は4〜9月、自治会や農協、小規模事業者らを通じて実施し、1158人が回答した。裁判員として選ばれた場合、2日以上連続して参加するのが不可能な理由を聞いたところ、「決算期」が最も多く、「イベント・キャンペーン」「重要会議」が続いた。参加できる日数は「連続2日まで」が最多だった。
ここに裁判員制度の重大な問題が潜んでいる。裁判員制度では1つの裁判に裁判員がずっと付き合う為、事前に何日を要するのか、予定が立たない。しかも裁判員候補者として裁判所に呼ばれ、裁判員に選定されれから、裁判が始まる迄、職場に戻って予定を考え直す猶予期間があるのかないのか、不勉強ながら筆者は知らない。となると、単に数日間、仕事を空けると困るのみならず、何時仕事に復帰出来るのか、見通しが効かない点も、裁判員制度の問題の1つである。この世にあるのは頑張るだけで作り溜·取り戻しの可能な仕事ばかりではない。参加し辛い時期を聞くと云う事は、こうした問題にも配慮している事を意味している筈だが、「筈」が何処迄現実になるかどうか。
  • 「岸和田だんじり祭(まつり)」は地域に根差した規模が大きな伝統行事で、関与する役職も多いと指摘。7〜8月には会合が多く、9月には準備も本格化するが「本番は土、日曜に固定されている」とし、役職や時期によって辞退を認める線引きは避けた。
  • このほか、2〜3月のイカナゴ漁は「1人でも抜けると船団を組んで漁ができず、周囲への影響が非常に大きい」。和菓子店も「夏祭りやクリスマスなどに受注が集中するが、作り置きできず、前もって準備するのは難しい」などと、一定の理解を示した。
裁判員に選ばれる可能性のある庶民にとっては、深刻な問題だろう。にも関わらず、「役職や時期によって辞退を認める線引きは避けた」「一定の理解を示した」と云う曖昧な態度は結局、
  • 実際に裁判員をするのは1事件で6人だが、50〜100人が裁判所に呼び出され、辞退を認めるかどうかは、最終的には事件を担当する裁判官に委ねられる。
とある様に、現場の裁判官へ裁判員の人事問題を丸投げした処に現れている。12月22日·27日には裁判員制度肯定派の意見にコメントした。肯定派は「市民のための司法」とか「市民感覚」とか云った表現を多用するが、皮肉にも、嫌がる人には無理強いをしない、と云う裁判員制度にブレーキを掛ける能力の有無で、市民感覚の有無が問われる事になってしまっている。
 
 

次にMSN産経(sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081226/trl0812261312006-n1.htm)によれば、裁判員制度に関する連載記事「風」に寄せられた読者の意見を、
  • 《人を裁くことを望まないし断固拒否する》(58歳男性)《制度の財源は防犯対策にこそ向けるべきだ》(70歳男性)…。裁判員制度をテーマにした今回の風。寄せられたご意見の約6割は、制度に批判的だった。
  • 風には、《拒否した場合の罰則が知りたい》など、反対とまではいえなくても疑問や不安を訴える声が2割強届けられた。
と云った具合に紹介している。解釈にもよるが、裁判員制度への反対は6〜8割。12月27日に挙げた辞退希望者の比率や、12月3日に挙げたシール貼り駅前アンケートの結果(「分からない」を分母から除くと68%が反対)にも近い数値なので、これが世間の相場だろう。と云う事は、裁判員制度を廃止するか、少なくとも志願制に改めるのが推進派の大好きな「健全な社会常識」や「市民感覚」ではなかろうか。
 
にも関わらず、
  • 通知が発送された前後から制度に関連した報道が相次いだとはいえ、まだまだ制度の内容が十分に浸透していない実態が浮き彫りになったといえる。
とは一体、何を云いたいのだろうか。そもそも裁判員制度への反感は、裁判に必要な知識がないとか、仕事があるだとかの理由から涌いており、裁判員制度に関する知識の普及で覆る性格の物ではない。そうした中、
  • 法務省も「不安を持っている人は少なくないと思う」とした上で「意識調査では、制度を詳しく知っている人ほど不安が軽減して参加意欲が高まる傾向が見られる。今後も情報提供に努めたい」と話す。
と云った具合で「情報提供」以外の切り札が出せない(利点を示せない)のは、何故か。もし、裁判員制度の日当が最高1万円/日なのに、誤って1000円/日だと云う噂が広まっていたなら、情報提供によって参加意欲を高める(不参加意欲を鎮める)事も出来よう。しかし事実に対する認識の誤り·不足が反感を生んでいるとは思えない。特に「裁判員の仕事である事実の認定には法律の知識は不要」と云う、しばしば聞かれる見解は、裁判を運営する様々な形式知·暗黙知を無視した暴論。ここ迄来ればもはや、裁判員制度が根本的に嫌われる性質を有していると、推進派も受け留めるべきだ。MSN産経記事は最後に読者の意見
  • 《参加が義務なら、導入前にPRに努めて国民の理解を求め、在り方や、現行裁判の是非について十分に議論する必要があったのではないか。突然に義務だと言われても、ついていけないのである》
で結んでいるが、筆者ならば「理解を求め」よりも「可否を問い」と主張したい。
 
 

最後にメディアリソース(fpcj.jp/old/j/mres/japanbrief/jb_128.html)と云う、新聞記事の要約ページ。日付は2004年3月15日、裁判員法が成立しつつあった頃だ。そこには、下へスクロールして行くと、
  • ······読売新聞は、思想信条による辞退を認めたことについて「閣議決定直前の最終段階で “骨抜き”にするような修正が行われた。自民党総務会が法案に難色を示した結果、『自分には人を裁けない』などの個人の『思想や信条』を理由に辞退できる条項を政令で加えることになった。この条項で、辞退者の増加が予想される。そうなれば、幅広く国民から裁判員を選ぶという制度の趣旨に反し、不公平感も生じかねない。こんなちぐはぐな法案では制度への信頼感も生まれない。国民的視点に立った深い論議が、余りにも不足している。拙速を戒め、国会で議論を尽くさなければならない」(3月3日付社説)としている。
と云う話がある。読売新聞は自民党総務会が思想信条の自由による辞退を要求した事に対し「幅広く国民から裁判員を選ぶという制度の趣旨に反し」と極めて批判的だが、裏を返して云えば、裁判員制度が支持されないであろう事を当時から自民党は見抜いていた、とも考えられる。となれば、今の苦しい状況を打破する1つの策として裁判員制度の廃止を挙げるべきだろうが、なかなか、政治的にまとまった動きにはなりそうもない。それから、
  • また、毎日新聞は「裁判員になった市民は肉体的、精神的に少なからぬ負担を求められるだろう」としながらも、「今後は裁判員を勤労や教育、納税と並ぶ『国民の4大義務』と心得て、進んで制度を担っていく決意を固めねばならない」(7日付社説)と強調している。
と云う話はどうだろう。裁判員制度への参加を勤労、教育、納税に続く4番目の義務に格上げするとは、何たる勝手な憲法改正だろうか。しかもどちらかと云えば護憲派に近い毎日新聞の病的意見だ。寧ろ、裁判員制度の負担の重さが憲法に抵触する疑いがここで現れたのだから、その虞を払拭する裁判員法の改正、望ましくは廃止を主張すべきだ。
 
 
裁判員制度に反対(続き)
2008年12月27日(土)
Infoseek
今日は晴。昨日も晴だったが、朝、雪が降ったと云う人もいた。またまた裁判員制度に関するネットニュースにコメントしよう。
 
 


 

先ず、裁判員になりたくない庶民の多さを報ずる河北新報(www.kahoku.co.jp/news/2008/12/20081224t13026.htm)と中日新聞(www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2008122702000053.html)。やりたくない庶民の正確な数値は、83.2%と66.0%。さて、河北新報で注目すべきは寧ろ参加容認派の理由で、
  • 一方、裁判に「参加したい」は3.5%(5.4%)にとどまり、「参加してもよい」は13.1%(16.4%)。理由は「国民として協力したい」が50.6%、「国民の義務」が26.5%と5―7ポイント増えた半面、「自分の人生に役立つ」は35.5%、「犯罪防止や治安に関心がある」は36.8%で6―8ポイント減った。
となっている。減少した「自分の人生に役立つ」や「犯罪防止や治安に関心がある」、増加した「国民として協力したい」や「国民の義務」をどう捉えるか。「自分の人生に役立つ」や「犯罪防止や治安に関心がある」には裁判員制度を契機として何をしたいか具体性がある。而るに「国民の義務」も具体的だが、押し付けらてもはや逃れられなくなった受動性が感じられる。まして「国民として協力したい」は抽象的であり、その中身が「犯罪防止や治安」か、「国民の義務」か、不明。理由の内訳を足すと100%を超えるので、複数回答が可能だった模様だが、参加容認派の中の已むを得ず派と積極派を6:4と見積もれば、本心レベルでのやりたくない派は9割に達するのではないか。
 
中日新聞は内面に踏み込んで
  • 裁判員をやりたくない人が約7割。やりたくない人の中で辞退したい場合などに裁判所に出す「調査票」を返送した人は、4割にとどまっている。人を裁くのは嫌だけど、辞退理由に当てはまらないから受け入れざるを得ない−という候補者の苦悩が浮かび上がった。
  • 出産や親族の介護など、辞退する理由がなく、受け入れざるを得ないとの判断があるとみられる。63歳の女性は「通知を受けて20日ほどたち、誰かがやらなきゃいけないとあきらめている」と話した。
と報じている。「誰かがやらなきゃいけないとあきらめている」と云う発言、自分勝手な裁判員制度の推進派は肯定的意見に数えるだろうが、実際には忌避だ。河北新聞の参加容認派の「国民として協力したい」·「国民の義務」と云う参加理由と共通している。この辺りの表現上は微妙だが実質的には明快な拒否の気持ちをもっと、権力者は汲み取るべきだ。
 
 

次に47NEWS(www.47news.jp/CN/200812/CN2008122401000327.html)には、
  • 森英介法相は24日の閣議後記者会見で、裁判員候補者名簿に記載された3人が20日に実名で会見し、裁判員制度廃止を訴えたことについて「個人的見解だが、やり方には、いささか疑念を持っている」と批判的な見方を示した。
とある。法相としては無難な発言だが、政界人としては庶民の裁判員制度に対する反感をもっと敏感に察知し、今やっと疑念を呈し始めた野党の先回りをして欲しい。
 
 

日刊スポーツ(www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20081226-444126.html)は裁判員制度に絡む詐欺未遂事件を
  • 裁判員制度に乗じて「裁判所からの呼び出しを断る手続きを代行します」などと言って金をだまし取ろうとする詐欺が、岩手県一関市で2件あったことが26日、分かった。被害はなかった。県警は詐欺未遂事件として調べている。
と報じている。実害はなかったので、裁判員制度推進派はほっとしているだろうが、責任の何%かを負うべきではないのか。筆者には小学校時代、難しい漢字を一杯、ノートに書いて他の生徒の注目を集め、教師から「他の生徒」に迷惑を掛けていると叱られた記憶がある。勝手に集まったのは他の生徒である上(自発的意思)、授業妨害だったとしても教師ではなく他の生徒に迷惑とは何たる言い草か、と理不尽に感じ続けた。だが客観的事実として斯様な意見があるのだから、裁判員制度推進派は裁判員詐欺とは無関係、と主張して逃げるべきではない。
 
それはともかく、「裁判所からの呼び出しを断る手続きを代行します」と云うレベルを超えて、裁判員そのものの代行業があり得るならば、これは至極まっとうな発想だ。被告には弁護士が付く。となれば疑いを掛けられていない無辜の民である裁判員にも、被告と少なくとも同等の権利として、弁護士に裁判員役を代行して貰う事を許容すべきだ。
 
 


 

最後にMSN産経(sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081225/trl0812251224003-n1.htm及びsankei.jp.msn.com/affairs/trial/081225/trl0812251224003-n2.htm)。裁判員制度賛成派の意見の紹介故か、産経の通常の思想からは滅多に出ない"市民"と云う言葉が使用されている。さて、
  • 《裁判は、社会秩序の維持のためになくてはならない。裁判員制度に参加することは、当然の社会貢献であり、この価値に比べれば、裁判員個人への負担はより小さいことです》名簿記載通知を受け取った男性から、こんなご意見をいただいた。
と云う主張。今ならば、庶民の中にもこうした奇特な人がいるから、裁判員選定から漏れるべく知恵を絞るやりやくない人が、確率的ではあるにしても、救われる、と思える。だが裁判員制度策定の段階で聞けば、この偽善野郎め、と筆者は激怒しただろう。
  • 《人が人を裁くのには、世間一般の生活体験の反映が必要です。裁判官は立派な頭のいい人ばかりだけれど、刑事裁判には一般市民の感覚を持ち込むべきです》
  • 《裁判官は、本当に地べたをはいずりまわった生活者ではありません。罪を犯す人は何かに七転八倒した人。理解できるのは、官ではなく民で、民の専門を生かせば、深く正しい判決に導けるはずです》
この様な発言にも疑問を感ずる。第1に、もし今の裁判が「一般市民の感覚から乖離している」とか、「罪を理解していない」とか、批判される側面を有しているのならば、それは判決のどんな処に現れているのか、冤罪が多いのか、刑が軽いのか、と云った具体的な不満が見えて来ない。第2に、「罪を犯す何かに七転八倒した人を理解していない」と云う問題が今の裁判にあるとすれば、裁判に犯罪者を顧問的な立場として呼ぶべきであり、単なる「世間一般の生活体験の反映」や「一般市民の感覚」や「民の専門性」を持ち込んで「裁判官は地べたをはいずりまわった生活者ではない」と云う問題を乗り越えたとしても不足。裁判員制度は裁判を改善する手段にはならない。第3に、仮に「世間一般の生活体験の反映」や「一般市民の感覚」や「民の専門性」が裁判に不可欠であるとしても、強制徴用された庶民の自発的協力は望めない。裁判員を顧問的な立場に留めて判決の責任は負わせないとか、目安箱ページを開設してパブコメを求めるとか、いっそ志願制にするとか、緩やかな形態が望ましい。おっと、「望ましい」のは庶民の裁判への参加が何らかの事情で不可避ならば、と云う仮定内での意見である。根本的に云えば庶民の参加は不要だ。
  • 「年間200件以上の判決を書く。休日は稼ぎ時というか、何本もの判決を書くのですよ」裁判官全員がそうとは限らないが、朝から晩まで法廷や裁判官室で過ごし、休日も机に向かって仕事。裁判官には「世間一般の生活体験」を味わえる機会は少ないのかもしれない。
この部分は「裁判官はだから世間知らずだ」とでも云いたいのだろう。しかし「世間一般の生活体験」とは何だろうか。この発想法では、仕事に忙しく、休日もない様な人は、裁判官であろうとそうでなかろうと、「世間一般の生活体験」に欠ける、との結論が出てしまう。となると暇な人程「世間一般の生活体験」を豊富に有しているのか。「本当に地べたをはいずりまわった生活」こそ、多忙ではないのか。エリートである法曹に対する単なる浅薄な反感だ。
  • ······これまで模擬裁判に裁判員として参加した人は、評議に加わらないなど反協力的な人はいなかったという。みな真剣に考え、自分の意見を述べていたそうだ。
これも出るべくして出た結果に過ぎない。凡そ模擬裁判に来る様な人は裁判員制度を拒絶していない人だから、反協力的ではない。だがこれからは、強制徴用された庶民もこの通り、と甘く見るべきではない。従って、
  • 裁判所には“市民感覚”が十分に反映できるような受け入れ態勢が求められる。
のであれば、またもや強制させられた感じのない形態が望ましい、と云う結論が出るのである。
 
 
私のしごと館(続き)
2008年12月25日(木)
Infoseek
今日は小雨後曇。
 
 

筆者の持論は私のしごと館を廃止すべき、であり、これまで意見を吐き出して来た。上の図は、時々新聞のチラシとして入っている私のしごと館の広告。分割スキャンした為、継ぎ目が目立ってしまったが、個人客、要するに庶民を呼び込もうとして努力している事だけは確か。だがまぁ、疑問は沢山。先ず、表紙の「コメディマジック」「バルーンパフォーマンス」「ジャグリング」「アート書道」は参加費無料。言い換えると、ショッピングセンターの集客イベントと何ら変わらず、道路を挟んだスーパーの為にやっている様で、国費(雇用保険)で維持されている私のしごと館の収支改善に寄与するとは思えない。もう1つ文句を云うと、参加費無料とは見物に際して入場料は只、と云う意味であり、アート書道の体験には1000円掛かる。
 
次にページをめくると、野菜ソムリエセミナーだとか、家族体験メニューだとか、修学旅行生の呼び込みだけから脱却したサービスがある。それ自体は悪い発想ではない。だがこうした活動の対象者は地域の住人に限られる。この点は、新聞のチラシと云う媒体を使っている事からも想像出来る。更に云えば、来る可能性のある人々はけいはんな精華·西木津地区、即ち光台、精華台、木津川台の住人だけで、筆者の様な奈良の住人はもはや遠回りと感じてしまう。となれば私のしごと館を維持したいのならば、その負担は自治体が負うべきであり、雇用のセーフティーネットに穴を開けて迄、続ける意義は乏しい。
 
なお昨日の閣議で、私のしごと館の廃止が政府の方針として決まった模様。
 
 
裁判員制度に反対(続き)
2008年12月23日(火)
Infoseek
今日は晴。この処裁判員制度に反対する日記になってしまった筆者の日記。
 
 

12月20日にも紹介した様に、育児中の裁判員·候補者をどうするかが裁判員制度の課題の1つとなっているが、MSN産経(sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081223/trl0812232227000-n1.htm)は、
  • 裁判員裁判が開かれる全国計60カ所の裁判所があるすべての自治体が、別の自治体から子供連れで来る裁判員の一時保育を受け入れる方針を決めたことが、最高裁のまとめで分かった。通常は午後5時ごろまでの保育時間も延長して対応する。
と報じている。これに関し、2つの指摘を行いたい。先ず、保育園側の負担は広域入所と延長保育だが、MSN産経の記事には
  • 最高裁では今後、育児中の裁判員や候補者から問い合わせがあった場合、裁判所が自治体の担当者を紹介して、保育所を斡旋(あつせん)できる体制づくりを進める。
とあって、要求はしても金を出す、と云う記述はない。国の予算には出て来ない、隠れた費用がここにもある。全国で総計するとどの程度になるだろうか。因みにこうした、すぐには答えられそうにない問題を「Fermi問題」と称する場合がある。物理学者Fermiが、物理学に必要な素養としての第1近似の能力を高める為、講義の際に「この町に床屋は何件あるか」等の質問を盛んに行った事に、由来する。次は辞退権で、
  • 育児を理由とした裁判員の辞退は認められるが、最高裁などは希望があれば裁判員を務められるよう、裁判所のある自治体に保育所を別の自治体居住者も利用できる「広域入所」に対応するよう求めてきた。
とあるが、もし最高裁の思惑通り、広域入所·延長保育が既成の事実となったならば、育児を理由とした辞退、或いはその1つ手前の選定手続きの辞退が、スムースに認められるだろうか。裁判員制度に関してしばしば「市民の健全な社会常識」と云う表現が登場するが、それならば、育児中でありながら裁判員として引き込まれる親の気持ちと、育児中であるが故に裁判員になれない親の気持とを比較して、何れが反感·安堵に属するか、「健全な社会常識」を以って考えよう。
 
それにしても「健全な社会常識」とは何だろうか。「健全な」と云う修飾語の使い方として、2通り考えられる。先ず、「社会常識」は健全であるから、これを強調する為に敢えて「健全な社会常識」と表現する場合。次に「社会常識」とは清濁併せ呑む精神だから、その中の「濁」を除く意味で「健全な社会常識」と表現する場合。やれやれ。
 
 
裁判員制度に反対(続き)
2008年12月22日(月)
Infoseek
今日は雨後曇。この処裁判員制度に反対する日記になってしまった筆者の日記。だが、紹介したいネット記事が多いのは、法曹·庶民の間に裁判員制度への反感が根強い為ではないだろうか。
 

先ず、地元奈良新聞(www.nara-np.co.jp/n_all/081222/all081222b.shtml)は、奈良地裁への裁判員の辞退を希望する電話に関し、
  • 同封されている辞退希望者らの調査票が今月15日に締め切られたが、奈良地裁には同日までに70件の問い合わせの電話が寄せられたという。うち40件近くが辞退に関するもので、······
と述べている。コールセンターの話は12月17日にも挙げており、辞退に関する問い合わせが半数以上だったが、こちらも同様。この文章は
  • ······奈良地裁は事態を重く受け止め、県民に制度への理解を求めている。
と結ばれているが、事態を重く受け止めるのならば、辞退したい希望を優先すべきだ。県民に制度への理解を求める、とあるが、この「理解」とは賛成(少なくとも不反対)の婉曲表現。単に賛意を求める以上の具体的方策のなさが、裁判員制度の本質を示している。
 
 

次にMSN産経(sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081220/trl0812201910002-n1.htm)。裁判員候補者が実名を出して反対意見を述べた話題は12月20日にも挙げたが、それは「裁判員制度はいらない!大運動」と云う団体の会見の席だった模様。反対意見の中身は
  • 都内の男性会社員(65)は「(候補者が実名を公表することなどは)違反と知っていたが、素人が審理しても意味がない。反対の声を大きくしなければと(今回)参加した」と訴えた。候補者通知を開封せずに送り返したという千葉県の無職男性(65)は「死刑や無期懲役という重大事件を裁くことは心に傷を残す」、千葉県のコンサルタントの男性(63)は「職業によって参加が義務だったり、そうでなかったりするのはおかしい」などと語った。
とある。だが、筆者はもう1つ、裁判員制度の問題点をここで指摘したい。それは年齢。反対意見を述べた勇者の年齢は63歳と65歳で、通常の企業や官庁であれば定年を過ぎている。而るに裁判員制度で辞退権を発揮出来る規定の1つに、70歳以上と云う条件がある。従って10年程度、社会から切り離されるにも関わらず、義務だけは押し付けられる、苦渋の期間が発生する。保育園をどうしよう、と騒ぐ状況とも似ているが、ここに、老人蔑視の思想はないだろうか。
 
 

そして毎日(mainichi.jp/select/jiken/news/20081220ddm002040087000c.html)。
  • 最高裁は19日、裁判員候補者に辞退希望などを答えてもらう調査票の回答が、期限の15日までに約10万9000通届いたと発表した。候補者29万5027人の3人に1人が回答した計算になる。
とある。調査票は辞退の可能性を訊ねる為の物とされている為、候補者の約1/3は辞退の希望を有している事になる。逆に云えば、辞退の意欲を示さなかった、或いは示せなかった候補者も2/3程度は存在する。「示さない」と「示せない」の比率は分からないが、裁判員の選定に際しては、辞退の意思を示した候補者、辞退の意思を(示したくても)出せなかった候補者を選ばない様、柔軟な対応を望むしかない。
 
 

またMSN産経(sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081222/trl0812222258016-n1.htm)。
  • 弁護士21人でつくる「裁判員制度アンケート調査実行有志の会」(事務局長・打田正俊弁護士)は22日、制度について弁護士を対象に実施したアンケート結果を公表した。全国の弁護士への調査は初めて。回答率は1割にとどまったが、回答者の68・3%が制度に反対だった。
とあり、アンケート回答した実に弁護士の7割近くが裁判員制度に反対。意地悪く解釈すれば反対派は僅か7%となるが、
  • 同会は「回答率の低さには導入が決まっているというあきらめが影響しているのではないか」と推測。その上で「本音では反対が多く、このまま実施するのは問題」と主張している。
と結んでいる処は人間心理の呼吸を衝いている。諦めるな、広まれ、反対意見。
 
 

最後にまた毎日(mainichi.jp/select/jiken/news/20081222k0000e040061000c.html又はhttp://mainichi.jp/kansai/archive/news/2008/12/22/20081222ddf041040015000c.html)。庶民は裁判員制度には反対、だけではない様子だ。
  • 約20年前から司法への国民参加を求めてきた京都市の市民グループ「開かれた裁判を求める市民フォーラム」の活動が今、改めて評価されている。発足当初から参加してきた同市の主婦、大東美智子さん(62)は「市民のための司法を実現するチャンス」と話している。
この様な団体は、存在しても不思議ではないだろうが、もし、法曹関係者のいない純粋な市民グループならば固有名詞を見るのは初めてになる。「開かれた裁判を求める市民フォーラム」は素人に信頼を寄せつつ、
  • 大東さんは「法律の知識がなくても有罪・無罪を判断することはできる」と語る。
  • 1928年からの15年間で484件あった陪審裁判。大東さんは「戦況悪化で中断され、再開されなかっただけ。法律の素人でも司法参加できることを示している」と強調する。
と主張する。だが筆者にとって疑問なのは、開かれた裁判を求める様な意識の高さがあったからこそ、司法判断が可能になったのではないか、と云う点。純然たる庶民には無理だ。これが所謂プロ市民だろうか。プロ市民は左翼思想を隠し持った社会運動家を蔑む用語として使われる場合が多く、
  • その後、00年3月、大阪市内であった「司法制度改革審議会」の第1回地方公聴会で、公述人の立場から「さまざまな経験を持った市民が意見を出し合った方がより真実が見えてくると思った」と意見を述べた。
と云う行動は非常に迷惑。だが裁判員制度の施行が決まってしまった今の現実を見据えるならば、プロ市民の存在は歓迎したい。裁判員候補者に選ばれた場合でも、普段の発言を貫くとすれば、逃げない筈だからだ。裁判所は裁判員選定の際には、是非こうした人々を優先的に採用し、無関心な庶民の不幸を回避して欲しい。
 
 
蒲の穂/私のしごと館(続き)
2008年12月21日(日)
Infoseek
今日は晴後曇で、夜から雨。
 

上の写真は蒲の穂だろうか。似ているが、蒲は湿地帯に生える筈。陸地で成長する特別な品種か。
 
 

さて私のしごと館だが、個人のブログ 愛と苦悩の日記は、本格オープンして間もない2003年10月19日に私のしごと館を訪ねた記事を載せている(tod.cocolog-nifty.com/diary/2003/10/post_4.html)。個人のブログの大半がそうである様に批判的な意見を有しているが、
  • 税金の無駄遣いということで悪名高い京都「私のしごと館」を、とある事情で訪ねた。
とあるので、私のしごと館はオープン当初に於いてすら(このブログの執筆者個人からではなく)、広く世間から批判を集めていた事が想像出来る。マスコミ系ニュースページの中でも夕刊フジ(www.zakzak.co.jp/tsui-sat/tsuiseki/contents/2002_10-03/030301_05.html)や中央ジャーナル(chuohjournal.jp/2003/05/post_1419.html)は本格オープン前から批判的意見を述べている。筆者は11月8日に述べた様に、当時けいはんな精華·西木津地区のサテライトオフィスに通っており、建設中の頃から総合病院か何かなぁ、とバスの窓から眺めていた。完成したのは厚生労働省系の施設。その頃中央省庁の改革が行われ、厚生省と労働省も合併と云う形の合理化の洗礼を受けた。そしてあぁ、やっぱり合併前からの計画で突っ走った箱物だったか、と思い、それ以上の関心を払わなかった。
 
それが今ではこうして拘っている。その理由の1つとして、けいはんな地区の事情を(ある時期迄ではあるが)多少なりとも知っており、何かまともな事が云えるのではないか、と自負している点がある。もう1つの理由はいびり屋上司A氏。例えば11月2日にも触れたが、ビジネスの点でも学術の点でも意味のない無理難題を押し付けられ、四苦八苦した思い出がある。その時、だからこの仕事はとても大事だ、と云うA氏流の根拠付けには総花的な一般論が多く、筆者はやる意義を全く感じなかった。"私のしごと館のあり方検討会"の報告書·議事録でも職業キャリア教育の重要性は総花的な一般論で説明されている様子で、だからこそ叩きたくなる、と云う側面もある。