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私のしごと館と梅棹忠夫構想 |
2009年4月28日(火) | |
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今日は晴。個人のブログ
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私のしごと館と梅棹忠夫構想 |
2009年4月26日(日) | |
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今日は晴れる筈だったが、朝から陽が差す中に小雨が降り始め、結局ずっと雨だった。
さて、けいはんな(関西文化学術研究都市)の街びらきは1994年である。勿論その前から様々な施設が進出し始めてはいたが、丁度「けいはんな学研都市フェスティバル94」が開催されると云う意味での節目の年だった。けいはんな、とは京都府·大阪府·奈良県にまたがる広大な山岳地を職住接近の地として開拓するプロジェクト、或いはそれにより出来た地域の略称である。
当時の講演会「地域と世界と、芸術文化の未来」の資料が残っている。
「地域と世界と」では民族学者·梅棹忠夫が自らの総合芸術センター構想を述べている。即ち、日本で遅れている学問分野として民族学、科学技術史、地域研究、芸術研究の4分野を挙げ、最後の芸術研究の場として美術館や文化プロデューサーを養成する学校の機能も含む「総合芸術センター」を設立すべきだ、と。規模はルーブル美術館の10倍、情報量は100倍だから壮大な構想である。最後の文化プロデューサー養成の発想も、科学技術に於けるMOTの様な役割を先取りしている。
民族学と地域研究への梃入れは、民族学博物館の設立で実現した。だが科学技術史の扱いは産業技術史学会の設立に留まり、博物館建設は「手違いがございまして」実現していない。これがどんな手違いか不明だが、万博の跡地に保管されていた大量の遺産が最近になって廃棄されてしまった様子だ。この辺りの事情は神戸国際大学経済学部教授·中村智彦のブログ
ところで、産業遺産を私のしごと館に移してはどうか、と云う意見が
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私のしごと館(続き) |
2009年4月22日(水) | |
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今日は晴。
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20日に開催された「私のしごと館に係る建物等の有効活用検討会」で議論の叩き台となった資料が公開されている。場所はwww.mhlw.go.jp/shingi/2009/04/s0420-8.htmlだ。その中で目を惹くのは、今後の有効活用に関するアンケート(資料5)。関西企業103社の約1/5、21社が回答しており、その中には農業·バイオの実験場と云うユニークな意見もある。だが極め付けは最後の、購入の可能性。21社中、20社が「ない」との事。これが現実だ。有効活用の途を探す実務はこれからシンクタンクがやる様子だが、検討会の委員も知って置くべき事がある。それは、けいはんな地区全体の開発の遅滞や、(株)けいはんなの倒産と云う厳しい事実。厚労省が作成した資料にはそうした問題には触れていない。地元を代表する委員はそんな事は初めから知っているから要らないのか。だがそうでない委員、例えば森永卓郎は「私のしごと館のあり方検討会」で、私のしごと館を宿泊機能付きの研修施設、つまり第2のけいはんなプラザにする様な能天気な意見を吐いていた。だから私のしごと館を取り巻く状況を整理する必要はやはりあるのだが、厚労省自身が知らないのか、意図的に伏せているのか。
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私のしごと館(続き) |
2009年4月20日(月) | |
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今日は晴後曇。朝晩と日中の寒暖の差が大きい。
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京都新聞は「私のしごと館に係る建物等の有効活用検討会」が開催された事に触れている。その目的は2010年8月末迄に廃止される事になった「私のしごと館」の活用策を、地元の視点から探る為。委員は「私のしごと館のあり方検討会」に参加していた2名と自治体関係者等。何れ詳しい議事録が出るだろうが、今コメント出来る点として木津川市市長·河井規子の発言
なお、「同感」と云えども、これは現状が法律に抵触している疑念があるからまずい、と云う意味での同感であり、私のしごと館の機能である職業の疑似体験の教育としての意義を認める意味での同感ではない。子供に疑似体験をさせるサービスはレジャーではあっても教育たり得ない。「最近、成田離婚、熟年離婚が多いから、小中学生にも恋の手ほどきをしよう。」と考えるのと同じで馬鹿げている。実際「私のしごと館のあり方検討会」第1回では厚労省[4]が「希望をかたくなに持ち続けた人よりも、修正を施してきた人のほうが、仕事上のやりがいを感じることがより多い。」と云う研究者の意見を挙げているが、ここから筆者は教育の無力さを感じてしまう。
次に京都府の
今後シンクタンクが活用案をまとめるとあるが、ショッピングモール説もユータウンやコーナンがオープンした今となっては無理。国立国会図書館関西館も、拡張用地を確保してしまった。過去、梅棹忠夫が巨大な国立総合芸術センター構想[6]を唱えていたらしい事に触れ、今日の日記を終えよう。
[1]www.mhlw.go.jp/shingi/2008/03/txt/s0327-1.txt [2]blog.nikkeibp.co.jp/cgi-bin/mt/mt-comments.cgi?entry_id=181875 [3]blog.nikkeibp.co.jp/cgi-bin/mt/mt-comments.cgi?entry_id=195806 [4]www.mhlw.go.jp/shingi/2008/03/txt/s0306-1.txt [5]www.mlit.go.jp/crd/daisei/daikan/tsp_sakutei/tsp_final.pdf [6]heike.cocolog-nifty.com/kanwa/2007/03/post_9c75.html | ||
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矢幡洋が紹介するMillonの性格理論と日本人 |
2009年4月12日(日) | |
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今日は晴。矢幡洋は自己愛人間の極端な例として、弟子に対し怒りっぽい落語家や粗暴なお婆さんを挙げているが、その怒り方の特徴は、人前では顕にならない、と云う点にある。矢幡洋はその職歴からどうやら自己愛人間に対して私怨を抱いている様子で、自己愛人間にはとにかく手厳しいが、逆に云えば自己愛人間には「公的な自分」をキーワードとする自己抑制能力がある、とは考えられないだろうか。
この点は矢幡洋が自己愛傾向あり、と見做す3人の政治家、安部晋三·福田康夫·小沢一郎を見るともっとはっきりする。例えば安部晋三の退陣のやり方。頑張って頑張って堪え切れなくなり、折れる時にはぽっきりと折れる、と矢幡洋は評していて、しかも、サラリーマンならば美談になるかもしれないが、と続ける。美談になる様な我慢強さが自己愛からも産まれる、と事実上云ってしまっている。福田康夫の「表の顔と裏の顔が全く違う」と云う証言も自己愛傾向の根拠の1つとなっているが、これも尻尾を出さない自己抑制の一種だ。更に、大連立報道で見せた小沢一郎の怒りっぷり(読売等には激昂するが朝日にはそうではない)にも、ホリエモンとは異なるコントロール能力を見ているが、これも自己愛を裏付ける証拠の1つとして採用されている。
自虐性はもともと我慢強いし、強迫性も真面目、計画的、細かい、論理的と云う点では自己統制的である。そして今日述べた様に、自己愛性も体面の維持と云う点で耐える力を有している。我慢強さは中高年の主要な価値観だが、自虐性·強迫性はそうした人間がビジネス社会では有能になり得ると云う理由付けの元に良しとされていたに過ぎず、最後の体面の維持こそがもっと深い好みに根ざしているのではなかろうか。
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矢幡洋が紹介するMillonの性格理論と日本人 |
2009年4月8日(水) | |
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今日は晴。前回、日本の今時の中高年は依存性をベースに抑うつ性、自己愛性が混じった性格傾向を有するのではないか、と述べた。依存性はともかく、補足的な性格タイプに関しては矢幡洋に挑戦状を突き付けている。抑うつ性はまだしも、自己愛性は意外かもしれない。
矢幡洋によれば自己愛人間は自信家で、大口を叩く割には余り努力せず、まったりと構えているお殿様で、時として世間ずれしていない理想主義者にも見える様である。だが矢幡洋が挙げている様々な実例から筆者が感じるのは、凡そ理想主義とは正反対の、世慣れた自己韜晦の才能だ。とここ迄書いて眠くなったのでやめよう。
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矢幡洋が紹介するMillonの性格理論と日本人 |
2009年4月5日(日) | |
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今日は晴。久し振りに心理学の話題。矢幡洋はMillonの性格理論に関する本を沢山、出しており、その中で折に触れて「おしん」がヒットした頃迄の日本人の理想像を、依存性が根幹となってこれに強迫性、自虐性(自己敗北性·マゾヒズム)が加わった性格だ、と述べている。逆に今時の若者に関しては、同様に依存性を根幹としつつも、シゾイド性が加わった性格傾向と演技性が加わった性格傾向の2つを指摘すると共に、依存性単体の濃度が上昇しているとも述べている。
何れ、きちんとリファレンスを挙げる事になろうが、現時点での反論を述べよう。
結論を云えば、旧来の日本人の本音(理想像ではなく)は依存性をベースに抑うつ性、自己愛性が混じった性格であるのに対し、今時の若者の本音は、依存性·演技性には同意するとして、更に受動抵抗性(否定性·拒絶性)を考える事で容易に解明出来る。
旧来の日本人、概ね今時の50代以上が強迫性に於いて濃厚か否かに関し、筆者は否定的な見解を有している。今時の中高年やそれ以上の世代が、一糸乱れぬ机の並び方だとか、枠に沿って丁寧に書かれている書類だとか、45°ピッタリのお辞儀だとか、ともかくきちんとした形を異様な迄に高く評価する事は確かである。そうした一見、四角四面な人物を見ると全面的に降参する。逆に螺子の緩んだ箇所を見つけると全部ダメだと思い込んで譲らない。しかし、形や行動に現れない、内面的な情報処理スタイルとしての強迫性、即ち論理性の欠如に於いて中高年は若者には負けていない。例えば「私的(わたしてき)」と云う表現は言葉の乱れとされている。言葉の乱れを気にするのは、形や行動に現れた強迫性の一面だ。だがそこには、書き言葉にした場合「私的(してき)」と混同するから、等と云った不便を指摘する意見はない。結局、中高年の強迫性は産まれながらにきちんとした存在である論理がそのまま表に出た様な本物の強迫性ではなく、好き嫌いでしかないのだが、それを好き嫌いだと自覚しないから厄介だ。もっと云えば、論理的な人間は堅物だとか融通の利かない頭でっかちだとか評されるに留まらず、反抗的とさえ思われてしまう。そこには、凡そ自分の云う事は自分が自分であるが故に即刻、認められるべだから、と云う理由付けがある。中高年が論理性を認めるレベルは、論理が望まれる社会環境がある事も確かであり、そうした場面で論理的な人間は役に立つからこそ、理想像として挙げるには渋々ならが相応しいが、本当は遠ざけたい、と云ったアンビバレントな感想程度である。
自虐性はもっと本音に迫っている。目標を達成するに際し、ひたすら努力する(だけ)の人間と、結論から逆算して合理的に計画を立てられる人間とを比べれば、中高年は圧倒的に前者に対しては好意を、後者に対しては一面、頼もしいと共に何処か疎外したい気持ちを抱くのではなかろうか。しかし、中高年には努力を隠したい願望もある。例えば体調の悪いマラソン選手が必死でふらふらしながら最後にゴールインする姿。中高年は感動すると共に、自分がその立場にあれば人前に醜態をさらす前に棄権したいと思うのではなかろうか。矢幡洋が自虐性の現れであるとする「おしん」や「巨人の星」も、作り話であった。更に云えば、自虐性の傾向のもう1つ、楽な道よりも苦難が予想される道を意識する、しないに関わらず選んでしまう特徴も、無難さを望む中高年の願望とは対立する。
結局、矢幡洋が指摘している理想像とは、特定の場面の枠内での好ましい姿であり、現実ではないと云う皮肉な意味での理想に過ぎない。勿論、老若を問わず日本人の基調は依存性だから、中高年と云えども強迫性、自虐性の全ての特徴は該当しない、とも考えられよう。しかし、当て嵌まらなさの中に選択性がある。強迫性にあっては形や行動のレベルでの強迫性と発想法としての強迫性。自虐性にあっては他人(作り話も含む)の自虐性と自分の自虐性。それぞれ、前者を肯定しつつ後者を否定する見事な鮮やかさは、依存性による一様な希釈では説明出来ない。
そこで強迫性の代わりに自己愛性を、自虐性の代わりに抑うつ性を考えるのが筆者の説である。この発想の出発点は今の世の中で依存性と自己愛性が処世術として不可欠な事、中高年の大好きな「品格」「体面」「顔」が抑うつ性と自己愛性の組み合わせで説明出来そうな事だったが、依存性を根幹として抑うつ性、自己愛性を加えれば上述の落差も難なく解釈出来る。詳細は今後に譲るとして、ここでは中高年の自己愛傾向は、依存性·抑うつ性にがっちりと阻まれている結果、
さて、今時の若者の特徴に話を移すならば、演技性に対して筆者は反対しない。演技性とは要するに軽薄な目立ちたがり屋だが、意外と自分自身を高く評価しておらず、それ故に表面的な華やかさで人目を惹きたがる性格傾向であり、必ずしも字句通りの演技、即ち本音ではない自分自身を意図的に操縦する事は得意ではない。現実の若者が、基調となる依存性で希釈されていると云う限定的な条件ならば、演技的である事は明確だ。だが若者文化は時代を問わず表面だけを見れば演技的ではなかろうか。また、演技性の奥底にある自信の弱さはどう考慮すべきか。筆者は
矢幡洋は今時の若者のもう1つの特徴として依存性にシゾイド性が混じった性格をも挙げている。但しそれは若者と中高年の中間の世代の食生活がその根拠になっている。だからもし、矢幡洋の、従ってMillonの「シゾイド性を伴う依存性」と、家族像が揺らぎ始めた1970年代後半の雰囲気を反映する小此木圭吾のシゾイド人間とが等価であるならば、もはや依存性にシゾイド性が混じった性格は今時の若者の主たる傾向ではなくなってしまったと考えるべきであろう。そもそも、大変微妙だが、矢幡洋が中高年を「依存性+強迫性+自虐性」と云う1つの混合物として位置付けているのに対し、若者には「依存性+演技性」と「依存性+シゾイド性」と云う2通りの解釈を与えているのだから、後者に対しては時間差を認める余地がある。
これに対し、受動抵抗性は今時の若者の特徴そのものである。即ち、恵みを垂れてくれる社会に甘えつつ、対価は払わず、不満だけを表明する。矢幡洋によれば田中真紀子の言動は受動抵抗性で解釈出来る様子で、その一見、気骨ある精神も他人の足をひっぱりたいだけの事でしかないらしいのだが、筆者にとっては政治家としての桁外れの無責任振りが今時の若者のそのものである。年齢的には若者とは云い難いのだが。付け加えるならば田中真紀子は、功労者として銅像を建設しますよ、と云うオファーを受けても余り喜ばないだろう、と矢幡洋は予想している。この部分は受動抵抗性の存在よりも自己愛性のなさに触れた箇所ではあるが、中高年にとって若者が使い辛い(好みの餌が分からない)と感ずる場面とも、符合するのではなかろうか。
今日は、ここ迄。
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