綾紫の閑散日記
2011年6月1日〜6月23日

 
天平祭の人出
2011年6月23日(木)
今日は晴。毎日[1]の報ずる処によれば、今年の平城京天平祭の人出は昨年の3割、約11万人だった模様。
  • 県公園緑地課は「東日本大震災の影響や、昨年よりもイベントの規模が小さいことなどが影響した」と分析している。
とあるが、奈良県全体で盛り上がった昨年と比べて3割ならば、寧ろ上出来ではなかろうか。5/16には9万5000人と云うデータを出していたが、その後の集計で若干増えているし。
 

[1]毎日(mainichi.jp/area/nara/news/20110617ddlk29040633000c.html)
 
 
蛍/MacのMO
2011年6月20日(月)
今日は曇時々雨。数日前、蛍[1]の撮影に成功。中心付近の緑の光だ。ところで仕事の場面では、10年以上昔のMac形式のMOに眠っていたデータの取り出しに成功。今すぐ必要ではないが、前任者から引き継いだデータであり、ずっと気になっていた。当時、筆者はそうではなかったが、当該の前任者も含め、理工系の用途にはMacがWindowsよりも向いていると考えている人々が少数ながらいた。しかしWindowsも急速に進化しつつあり、筆者は当該の前任者に無理にお願いしてWindowsに乗り換えてもらった。だから読めないままだったが、旧友に邂逅した様で、自らも若い日々の思い出にしばらく浸った。
 

[1]蛍
 
 
河野卓男
2011年6月15日(水)
今日は曇。河野卓男ネタを続ける。国際高等研究所の「あゆみ」[1]に比べ、(独)労働政策研究·研修機構がまとめた「地方圏における雇用創出の研究」[2]や、「クラスター型開発と雇用創出」[3]は更に踏み込んで、河野卓男が学研都市開発の中心人物だった様子を表現している。「地方圏における雇用創出の研究」と「クラスター型開発と雇用創出」は内容に於いてほぼ同じである為、前者の91ページ以降、「関西文化学術研究都市におけるクラスター型開発と雇用創出」を引用するとしよう。先ず「はじめに」で
  • 学研都市の建設は、1978年の関西学術研究都市調査懇談会(奥田懇談会)により提唱され、1987年の関西文化学術研究都市建設促進法の施行により国家的プロジェクトとして開始、現在に至っている。
とあるがここ迄は定説の通り。しかし、
  • 学研都市プロジェクトを中心となって推進してきたのは、初期段階においては京都経済同友会代表幹事などを務めてきた河野卓男氏、それ以降においては財団法人関西文化学術研究都市推進機構(以下では推進機構と呼ぶ)といえる。後に詳しく説明するように、河野氏は数多くの人脈を利用しつつ強力なリーダーシップやコーディネート能力を発揮することにより、学研都市プロジェクトを国家的プロジェクトにまで押し上げた人物である。一方、推進機構は、河野氏の役割を継承する形で地元経済団体や国·府県などと連携しつつ学研都市の建設に尽力している。
と続ける事により、河野卓男の活躍が(財)関西文化学術研究都市推進機構に継承さたと主張する。奥田東の存在感は奥田懇に名を留める程度である。

97ページ以降の本論「学術研究都市プロジェクトとそれに関連した学研都市全体としての雇用創出」に移ろう。河野卓男の人物像は
  • 学研都市プロジェクトが国家的なものとなる以前において、プロジェクトの立ち上げに尽力したキーパーソンが存在する。京都大学法学部出身で、株式会社ムーンバット社長、日本洋傘振興協議会会長さらには京都経済同友会代表幹事などを歴任した河野卓男氏である。
とまとめられており、単なる社長ではなく公職にも就いていた事が示されている。そして、
  • 彼は、友人であり当時第19代京都大学総長であった岡本義雄氏を通じ、第17代京都大学総長奥田東氏と知り合い、奥田氏を先頭に立てつつ経済界、学界、さらには政界や行政に働きかけることにより学研都市プロジェクトを国家的プロジェクトにまで押し上げていった人物である。
とあるので、河野卓男と奥田東は直接の知り合いではなかった様子である。なお「奥田氏を先頭に立てつつ」という点は12日に紹介した国際高等研究所の「あゆみ」と共通している。引用を続けよう。
  • 1976年、奥田氏は留学生受け入れのための大規模な研究農場用地について、河野氏に相談を持ちかけた。
という箇所から、奥田東の関心は農場用地であり、必ずしも今のけいはんな地区を開発する構想を有していなかった事が示唆される。なお「地方圏における雇用創出の研究」は成長の限界に触発され云々とは一切述べていない。国際高等研究所の「あゆみ」と異なる点である。そして相談を受けた河野卓男は
  • 河野氏は当時、京都経済同友会で地域開発委員会を担当しており、京都府南部エリアを新たな経済活動拠点にすべきとの考えを持っていた。そこで彼は、奥田氏に同エリアに研究農場も含めた学研都市を建設してはどうかとの提案をした。この提案に奥田氏は全面的に賛成するとともに、中心となって学研都市構想を作成したのであった。
といった具合で、おそらく以前からの持論だったであろう、京都府南部の開発を提案している。その後の河野卓男の活躍ぶりは、
  • 構想を実現すべく、河野氏は関西経済界、特に関西経済連合会(以下では関経連と呼ぶ)への働きかけを行った。彼は、大事業たる学研都市プロジェクトを実現させるためには、京都経済界のみならず大阪を中心とした関西経済界全体の協力が必要不可欠であると考えていたのである。
  • また河野氏は、奥田氏と関経連会長の会見を実現させることにより経済界の賛意を取り付けたり、近畿出身の国会議員を通じた3 府県知事などに対する学研都市プロジェクト了解工作を行ったり、国の理解を得るべく有力国会議員にも援助を依頼したりしたという。
とある様に財界、政界、行政を相手に八面六臂である。これに比べ
  • 一方、奥田氏は近畿主要大学への働きかけを行った。
とある様に、奥田東のやった事は限定的だ。1976年に農場の話が出てから僅か2年後、
  • これら努力の結果、学研都市プロジェクトは、1978年の関西文化学術研究都市調査懇談会(奥田懇談会)において正式に提唱されることとなる。
といった具合でけいはんな都市開発の始まりとされる奥田懇が誕生。それ以降、国や自治体が動き始めるが、
  • 1986年には、推進機構が設立されることとなるが、これにより河野氏が果たしてきた役割、特に関係組織間のコーディネーターとしての役割は、同機構に委ねられてゆくこととなった。
とある。河野卓男のけいはんなへの関与もフェードアウトして行ったのだろうか。

以上が「地方圏における雇用創出の研究」の描く河野卓男の姿だ。だが、97ページ脚注にも
  • この資料が指摘するように、学研都市萌芽期における取り組み、すなわち河野氏が中心的役割を果たした取り組みについてはこれまで文章化されたり表面化したりすることが極めて少なかったといえる。試しに、Yahoo! Japanで「河野卓男」をキーワードとして検索してみたところ、ヒット数はわずか24件であった。
とある様に、その活躍ぶりは殆ど今に残っていない。1つの仮説として、どんなにコーディネーターとして活躍しても、公的な講演や論文発表を行わなければ、その名前は残らない。もう1つの仮説だが、97ページ脚注
  • 河野氏の考えを要約すると、以下のようになる。東京遷都以来、京都への資本の集中はなくなり洛中における経済活動は鈍化した。この問題を解決するためには、新たな経済拠点が必要となる。そこで、大規模開発が困難な洛中ではなく、京都府南部エリアを新たな経済拠点として開発してはどうか。
  • 一方、奥田氏は、日本は自前の基礎科学を確立しないと応用技術も出てこないといった考えを持っていた。
から想像すれば、河野卓男の発想は京都府南部の開発だが、必ずしも研究機関の集積は狙っておらず、そうした要素を入れたのは奥田東だった可能性がある。従ってけいはんなの性格が学術研究志向になれば奥田東の名が残り易いのかもしれない。

謎である。
 
 
河野卓男
2011年6月12日(日)
今日は曇後雨。けいはんなの都市開発は、京大総長だった奥田東が「成長の限界」を読み、日本の将来に危機感を覚えた事から始まるとされるが、その1つ前の動きもあった様子だ。けいはんなに位置する研究施設の1つ、国際高等研究所の「あゆみ」[1]は、
  • 1970年代後半から1980年代にかけて京都経済同友会の代表幹事を務めた河野卓男氏は、財界人·産業人でありながら、高い見識と広い学識を兼ね備えた知識人·オピニオンリーダーとして深い哲学的思想基づく文明論など多くの論文や提言を発表していた。
と述べつつ、河野卓男と云う財界人の名を挙げている。そして
  • その中でも特筆すべきは、古代日本の文化軸と今日の産業軸の交差する京都府南部木津川左岸の京阪名丘陵地域に着目し、そこに新たな関西研究学園都市を建設すべきとする同氏の構想であった。
と続け、京都府南端を中心とした地域を開発する構想が河野卓男に始まる事をしめしている。京阪奈となるべき箇所が京阪名になっているのは御愛嬌だ。奥田東の名が登場するのはこの後であり、
  • 一方、1969年(昭和44年)に京都大学総長を退官した奥田東·京都大学名誉教授は、総長を退官した後に、ローマクラブの提言「成長の限界-人類の危機-」に触発され、人類の生存に深く関わる問題の顕在化に対して「学者として何かできることはないか」との使命感に強く動かされ、その後の人生をかけつ覚悟を決めていた。
  • このような状況を踏まえ、河野氏は関西研究学園都市構想の推進を図るために、奥田氏に学界としてのまとめ役を託すことを決めて多くの協議を重ねた。
  • 同構想は、奥田氏を先頭に河野氏が中心となって政財界に働きかけ、多くの賛同者を集めるさきがけとなった。
とある様に、河野卓男が主導役、奥田東が看板役とも受け取れる表現がなされている。写真の順序も河野卓男が先である。

こうした記述が真実ならば、けいはんなの都市開発は河野卓男に始まるとすべきである。しかし自治体や、けいはんな地区のとりまとめを行う組織である(財)関西文化学術研究都市推進機構は、河野卓男に全く触れていない。謎である。(独)労働政策研究·研修機構の「地方圏における雇用創出の研究」[2]や、「クラスター型開発と雇用創出」[3]は少し違う側面にも触れているので、次に取り上げるとしよう。
 

[1]国際高研のあゆみ プロローグ
(www.iias.or.jp/profile/history.html)


[2]「地方圏における雇用創出の研究 第II部 地域雇用創出の事例」労働政策研究報告書 No.102 2008年7月9日
(www.jil.go.jp/institute/reports/2008/0102.htm)


[3]「クラスター型開発と雇用創出」ビジネス·レーバー·トレンド 2008年11月号
(www.jil.go.jp/kokunai/blt/bn/2008-11/index.html)
 
 
奈良県木津川市
2011年6月7日(火)
今日は曇。木津川市は京都府南端の市だが、古刹や昔の都、住宅街を見ていると奈良市の一部の様である。Googleで"奈良県木津川市"[1]を検索すると21000件が引っ掛かり、中には実際、木津川市を奈良県の一部と思い込んでいる様なページも出て来る。数は少ないが、"奈良県精華町"[2]や"奈良県相楽郡"[3]も同様だ。阪神間の市が、大阪府·兵庫県のどちらに属しているか、分かり難いのと似ている。
 

[1]


[2]


[3]
 
 
カゴヤ·ジャパンのインタビュー記事より
2011年6月1日(水)
今日は曇後雨。筆者は長年、けいはんな地区に通勤していた。けいはんな地区は元々、関西における筑波を目指して開発された場所だったが、最近では研究開発型の中小企業向けの地区としても位置付けられている。そうした企業の1つが、5/19付けのEnterprise Zine[1]で紹介されているカゴヤ·ジャパンだ。3/2の日記でも、私のしごと館の近隣の企業として触れた。立地の理由として
  • 「活断層がこの近くにないんですね。そして、標高が70メートルある。海抜70メートル。海からも遠い。斜面になっていて、勾配がある。地震と水害のリスクが少ないという判断です」
とある様に、活断層が遠く地震の可能性が低い事、標高が70mと高く水害の可能性も低い事が挙げられている。前者はともかく、後者はその通りで、地域一帯が丘陵地である。マイナス面は
  • 地震や水害を考えこの土地を選んだとのことですが、唯一、このあたりは雷が多い地域なんだそうです。
とある様に雷。筆者は必ずしも雷が多いとは感じていなかったが、どうもこの辺りは雲の通り道になっていて、霧·雨が多いと感じていた。

こんな事ももう、過去の思い出だが、やはりネット上の天気予報でも、奈良県と京都府の境界線付近に於いては、どうした訳か殆ど常に、北側で雨量が多い。
 

[1]Enterprise Zine(enterprisezine.jp/article/detail/3112)